敏史 | 高山陶園ホームページ
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渡辺敏史

​toshifumi

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常滑急須の祖 

杉江寿門の末裔

1984年  

常滑焼窯元七代目に生
2002年  

愛知県立常滑高等学校

セラミック科卒
2002年〜2005年  

瀬戸赤津焼

窯元 霞仙陶苑に師事
2005年  高山陶園(実家)入社

2006年 

とこなめ焼振興展 

内閣総理大臣賞
2007年  

ギャラリーオープン

2008年 

とこなめ焼振興展 

内閣総理大臣賞

​2014年 

高山陶園

代表取締役社長就任

2015年 

ミラノ国際博覧会 

日本館出展

2015年 

AEON MOLL常滑 

巨大招き猫 

急須猫オブジェ

製作 展示

2019年

平成〜令和 

[天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位]

式典での器 製作

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【実家が窯元】

物心つく前から焼物製造工場の中で土に触れ遊んでいた

工場には常に働いているおじさん、おばさんが10人以上いて、行けばチヤホヤしてくれる環境で甘やかされ育つ

粘土から製品になるまでの流れが自然に目に入り当たり前のように理解した

 

祖父

「お前は、やればできる」

何を根拠に言われたのか全くわからない言葉だが日頃多くを語らない祖父からたまに言われる印象的な言葉だった

そして根拠なく やれば出来る が自分の意識の中に浸透している

 

祖母

「男が負けて帰ってきたら許さん、もしやられたら3倍にして返してこい!」

常に気が立っていて誰からも恐れられていた祖母の言葉は祖母の男兄弟は全員ガキ大将と言う血筋からの思いか

誰にも負けてはいけない といった心を強く強制的に叩き込まれた、笑

 

「世界一になれ」

日頃、会える時間に家には居らず自分の人生に夢中の私に関心のない父からたまに言われた言葉

自然と受け入れていた言葉

後に、この言葉は現在までの私を苦しめる言葉ともなっている、笑

 

「ちゃんとしなさい」

正直さ、素直さ、人への優しさを軸に

私のベースは

常識を求める母につくられる

が非常識(何事も経験だ)も求める祖母、父の影響で混乱していた部分もある

 

「私もやりたい」

全て私の真似をする妹

自分が失敗したら妹も失敗する

その為、自分が物事を正しく理解する必要があった

深めることの喜びを知った

 

そんな環境で育つ中、小さい頃から何かを作る事が好きだった私は自然と焼物の魅力に取り付かれ、その道へと進むことに決めた。

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初代杉江寿門座像(明治30年).jpg

【青天の霹靂】

 

青天の霹靂をリアルにこれ程までに感じた事はあった事がないし

今後も体験するかも分からないぐらいの衝撃が走ったのは

 

祖父が亡くなり

家族が落ち着き始め

私が社長になると決意し

その手続きを進めていた頃だった

 

 

父が来ていたお客さんと話している所にたまたま通りすがった時に聞こえてきたのが

 

 

「ウチは寿門の系統だでね」

 

 

は?呪文の毛糸??

 

 

は??

 

寿門の系統!?!?

 

 

 

 

寿門の系統だと!?

 

 

 

お客さんが帰るのを見計らって

速攻で父を問い詰める

 

私「おい、さっき寿門の系統とか言ってなかった?」

 

父「おお」

 

それがどうした?の雰囲気

 

 

私「いや、寿門の系統って、どういう意味?」

 

父「血筋だが」

 

 

私「は!?何を言っとる」

 

 

父「お前が何言っとるだ」

  「知らんのか?」

  「何で知らんだ?」

 

 

 

 

私「…」

 

パニック

 

 

 

と言うのも

生まれてこの方、聞いたこともないし

 

祖父から焼物屋を始じめ3代目と聞き、思い、語り

育ってきていたからである

 

 

この衝撃は理解されないかもしれないが

 

約30年間、当たり前だった物が違った事

 

急須の祖と知り、高校では教科書にも出て

習った人物が自分と血縁だった事

 

のダブルの衝撃

 

青天の霹靂 とは正にこの事かと思った

 

 

 

 

何故それを言って来なかったかは

ウチは寿門の直系ではなかったから

だけのことで特に深い意味はない

とのこと

 

非常にムカつき

そこで爆発的に私の思いを語った結果

 

 

父は2代目と言っていたのが6代目となり

プロフィールを書き直し

 

寿門の寿を頂き 寿仙 として活動を始めることにもなり

 

「寿門会」を発足

中国から伝来した文人 金士恒から受け継いだ急須の技術、寿門との繋がりを現代に

 

金士恒の子孫との交流、金士恒の生まれ育った急須の街、宜興との街同士を挙げての交流をも始めるきっかけとなっていった

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